今月の歌
浜辺の歌
ラウム歌集525 23ページ記載
林 古渓 作詞
成田 為三 作曲
あした浜辺を
さまよえば~
「日本の夏、OOの夏」なんて広告のキヤッチコピーがありましたが、この歌もまさに日本の夏をイメージさせる曲として、挙げられる1曲なのではないでしようか。少しエキゾチックで、のどかなのですが、どことなくノスタルジックなメロディが、夏の夕暮れ、そぞろ歩きにぴったりの曲です。
作曲は秋田県森吉町出身の成田為三。この曲を作曲したのは、1916年ころで、当時、東京音楽学校在学中だつた成田が、雑誌「音楽」に教材用として掲載された林古渓の詞に、曲をつけたのが、きっかけでした。
この曲の舞台はどこか、という疑間がよく話題にのばります。実は、林も成田も生前にこの謎についてのヒントを残していかなかったそうで、成田の故郷、米内沢の「阿仁川のほとり」、岩城町の「道川海岸」、能代市の「能代浜」など秋田県内の海岸や、他県では、佐賀県唐津市の「虹ノ松原」なども候補地として名乗りをあげているとか。有力な候補としては、成田と音楽学校時代の同期の歌手、後藤ヨシが、「岩城町の療養所に友人を見舞った成田が、月見草の咲く道川海岸を見て曲想を得た」と語っているそうですが、もはや正解は遠い海の彼方にあるようです。
1つ、この歌に関わる友情のエピソードをご紹介しておきましょう。十和田湖の南の小さな町、毛馬内の油屋旅館には、山間の一軒宿にはおよそ不似合いな1台の古びたピアノがいまも置かれています。このピアノ、この旅館の創始者・大里健治が1927年、成田のために注文したピアノで、町民たちに「浜辺の歌のピアノ」と呼ばれ、親しまれていたものでした。
かつて成田は、作曲家になるのを夢みたものの、両親に反対され、やむなく選んだのが教師の道。赴任してきたのが、ここ毛馬内の学校でした。音楽教育にうちこんだみたものの、あまりの熱心さゆえ、「変わり者」のレッテルをはられてしまいます。そんな成田が唯一心を許したのが、大里健治でした。内気で回下手な成田が、音楽への思いをとつとつと語り、そして音楽好きの大里が励ます――そんな交際が約1年続いた後、成田は音楽の夢を捨てきれず、東京音楽学校の試験を受け、旅だっていきました。2年後、東京の成田から、大里のもとに手書きの楽譜が届きました。1枚目に「敬する大里様へ」と書かれた楽譜は、「浜辺の歌」の第一稿でした。楽譜を見た大里はそのすばらしさに感動し、地元秋田でもぜひ演奏会を、と考え、1927年、ついに実現しました。ところが毛馬内には当時、ピアノなど―台もなく、そこで大里は、急遠、東京の業者に成田が弾くピアノを注文しました。当時なら、家2、3軒は買える値段のピアノに町民たちは驚き、そして成田自らが弾く「浜辺の歌」こ酔いしれたということです。
1988年、米内沢に「浜辺の歌音楽館」が造られました。大里の受け取つた第一稿は、寄贈されましたが、ピアノは、「父があれだけは手放せないといってました」と、息子の耕律さん(成田が師事した、山田耕律の名前をもらった)が手離さなかつたそうです。2人の友情の証であり、あのメロディを成田自身が奏でたピアノ、もし秋田に行く機会があったら、ごらんになられてはいかがでしょうか。
作曲は秋田県森吉町出身の成田為三。この曲を作曲したのは、1916年ころで、当時、東京音楽学校在学中だつた成田が、雑誌「音楽」に教材用として掲載された林古渓の詞に、曲をつけたのが、きっかけでした。
この曲の舞台はどこか、という疑間がよく話題にのばります。実は、林も成田も生前にこの謎についてのヒントを残していかなかったそうで、成田の故郷、米内沢の「阿仁川のほとり」、岩城町の「道川海岸」、能代市の「能代浜」など秋田県内の海岸や、他県では、佐賀県唐津市の「虹ノ松原」なども候補地として名乗りをあげているとか。有力な候補としては、成田と音楽学校時代の同期の歌手、後藤ヨシが、「岩城町の療養所に友人を見舞った成田が、月見草の咲く道川海岸を見て曲想を得た」と語っているそうですが、もはや正解は遠い海の彼方にあるようです。
1つ、この歌に関わる友情のエピソードをご紹介しておきましょう。十和田湖の南の小さな町、毛馬内の油屋旅館には、山間の一軒宿にはおよそ不似合いな1台の古びたピアノがいまも置かれています。このピアノ、この旅館の創始者・大里健治が1927年、成田のために注文したピアノで、町民たちに「浜辺の歌のピアノ」と呼ばれ、親しまれていたものでした。
かつて成田は、作曲家になるのを夢みたものの、両親に反対され、やむなく選んだのが教師の道。赴任してきたのが、ここ毛馬内の学校でした。音楽教育にうちこんだみたものの、あまりの熱心さゆえ、「変わり者」のレッテルをはられてしまいます。そんな成田が唯一心を許したのが、大里健治でした。内気で回下手な成田が、音楽への思いをとつとつと語り、そして音楽好きの大里が励ます――そんな交際が約1年続いた後、成田は音楽の夢を捨てきれず、東京音楽学校の試験を受け、旅だっていきました。2年後、東京の成田から、大里のもとに手書きの楽譜が届きました。1枚目に「敬する大里様へ」と書かれた楽譜は、「浜辺の歌」の第一稿でした。楽譜を見た大里はそのすばらしさに感動し、地元秋田でもぜひ演奏会を、と考え、1927年、ついに実現しました。ところが毛馬内には当時、ピアノなど―台もなく、そこで大里は、急遠、東京の業者に成田が弾くピアノを注文しました。当時なら、家2、3軒は買える値段のピアノに町民たちは驚き、そして成田自らが弾く「浜辺の歌」こ酔いしれたということです。
1988年、米内沢に「浜辺の歌音楽館」が造られました。大里の受け取つた第一稿は、寄贈されましたが、ピアノは、「父があれだけは手放せないといってました」と、息子の耕律さん(成田が師事した、山田耕律の名前をもらった)が手離さなかつたそうです。2人の友情の証であり、あのメロディを成田自身が奏でたピアノ、もし秋田に行く機会があったら、ごらんになられてはいかがでしょうか。