2013年9月8日日曜日
復興版「今月の歌」9月 2000年9月掲載

今月の歌・語り
9月
赤とんぼ
 
三木露風 作詞
山田耕筰 作曲
ラウム歌集12ページ掲載



 このコーナーも1周年を迎えました。これからも思い出の歌、心に残る歌をたくさん紹介していきますのでよろしくお願いいたします。さて、今回は童謡の定番中の定番。日本人が最も好きな曲の1つで、日本人の心の歌としてとりあげられることも多い、「露風―耕筰」コンビの名曲です。男声四重唱ダークダックスの喜早哲氏は、その著作の中で、「歌いやすく、編曲しやすく、歌うことによって自己陶酔しやすい歌、すなわち名曲であると思う」と分析しています。確かに、この歌は、歌う者をそれぞれがもつ感傷の世界に誘うような不思議な魅力を持っているようです。

 作詞の三木露風は明治22年兵庫県生まれ。祖父は奉行職をつとめ、明治維新後は、初代龍野町長、銀行頭取などの要職にありました。露風の父はその次男ですが、放蕩に身をもちくずし、露風が7歳の時、母は鳥取の実家に帰ってしまいました。露風自身は祖父の家に引き取られましたが、やがて父が再婚、異母兄弟も生まれたということです。
赤とんぼは、そんな露風のさびしい幼年時代を歌った詞です。見晴らす平野に無数の赤とんぼが飛ぶ夕暮れ。赤く染まった空の下を今日も,帰らない夫を待ちわびつつ、わが子を背に家路をたどる母のわび姿。母とともに山の畑に行ったまばろしのような思い出。母が去った後、女姉妹もいない露風をかわいがってくれた姐や。歌詞にはこうした実体験から生まれたものでした。

 一方、一度聴いたら忘れられないこの美しいメロディを作曲した山田耕作は、東京のキリスト教的な家庭で育ちました。家では賛美歌を歌ったり、オルガンも身近にある環境でした。また横須賀の海軍軍楽隊や近くの外国人居留地から聞こえてくるピアノの音にも刺激を受けて育ったといわれています。耕筰は、歌曲の作曲にあたり、もとの詩の語調や、アクセントにとても気を配った人でもありました。北原白秋とのコンビで生まれた「からたちの花」は、まさにそのこだわりがしっかりと生かされた曲です。しかし、この歌に限ってはそのようにはいきませんでした。歌詞の中で「つんだは」「まぼろし」「よめ」「さお」などのアクセントが逆になっており、耕筰の中では珍しい作品といえま
す。面白いのが、タイトルにもなっている2行目の「あかとんぼ」という言葉、現在は「あ『かと』んぼ」とアクセントは真ん中の『かと』あたりにありますが、当時は「『あ』かとんぼ」と先頭の『あ』にアクセントがあったのだそうです。近代音楽の技法をいちはやく身につけ、数々の作品に昇華させた、さしもの耕筰も、よもやアクセントが時代とともに変わろうとは予測できなかったようです。

露風と耕筰はほんとうによく息の合ったコンビで、実に69曲もの歌が世に送り出されました。耕筰は「歌曲は詩の一と曲の一がプラスされて三になるのでなく、歌曲というまったく別な一つの芸術作品になるのだ」と語っていたそうです。昭和39年12月29日、露風は突然の交通事故で亡くなりましたが、なんと耕筰もその後を追うかのように、翌年の同じ日に亡くなりました。数多くの名曲を一緒に世に送り出した2人の、なんとも不思議な因縁を感じずにはいられません。


 
 『赤とんぼの思ひ出』三木露風
 私の作った童謡「赤とんぼ」はなつかしい心持から書いた。それは童話の題材として適当である思ったので赤とんぼを選び、さうしてそこに伴ふ思ひ出を内容にしたのである。その私の思ひ出は、実に深いものである。ふりかへって見て、幼い時の自己をいとほしむといふ気持であった。まことに真実であり、感情を含めたものであった。思ふに、だれにとってもなつかしいのは幼い時の思ひ出であり、また故郷であらう。幼年の時故郷にいない者は稀である。幼年と故郷、それは結合している。であるから、その頃に見たり聞いたりしたことは懐1日の情をそそるとともに、また故郷が誰の胸にも浮かんでくるのである。私は多くの思ひ出を持っている。「赤とんぼ」は作った時の気持ちと幼い時にあったことを童謡に表現したのであった。
「赤とんぼ」の中に姐やとあるのは、子守娘のことである。私の子守娘が、私を背に負ふて広場で遊んでいた。その時、私が背の上で見たのが赤とんぼである。
「赤とんぼ」を子供に聞かせる時の私の希望は、言葉に就ての注意である。さうして各説に就て一々それを説明して聞かせ、全由の心持もわからせるやうにすることである。それらのことは必要事項で、あとは子供の有する感受性で感得するといふことにしたいのである。

(日本童謡全集昭和12年日本蓄音器商会よリー部表示の都合で、現代カナ使いに変更)



 
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