2013年11月6日水曜日
復刻版今月の歌「旅愁」

今月の歌・語り
10月
旅愁
犬童球渓(いんどう きゅうけい)作詞
オードウェイ 作曲
ラウム歌集243ページ記載


1.更けゆく秋の夜 旅の空の
わびしき思ひに ひとりなやむ

更けゆく秋の夜…。林芙美子の「放浪記」の冒頭に、この歌が引用されています。宿命的な放浪者と自らを呼ぶ彼女が、母親と各地を転々とした幼い頃の思い出をこの歌詞に重ねて、回想する場面です。旅の空から故郷を思うこの歌。ふるさとと呼べる場所がない彼女は、どんな思いでこの歌を口ずさんたのでしょうか。そんなことを考えながら、言葉ひとつひとつをかみしめてメロディをたどれば、ノスタルジックな気持ちが胸にこみあげてきます。

この美しいメロディの原曲はアメリカの作曲家オードウェイの「Dreaming of Home and Mother」(夢にもみる家庭と母)で、明治40年に発行された「中等教育唱歌集」が初出です。この中等教育唱歌集は、33曲が収められ、すべてが外国のメロディというユニークなものでした。球渓のもう一つの代表作、「故郷の廃家」(『冬の星座』のヘイス作曲)も初めて掲載されたのが、この本でした。以降、明治から大正にかけて、全国的に愛唱され、今ではすっかり日本の歌として定着しました。

球渓は、時代的には滝 廉太郎と中山晋平との間に位置する人です。熊本県人吉市出身。本名は信蔵といい、ペンネームは、球磨川渓谷からとったのだそうです。高等小学校卒業後、小学校の代用教員をしていた頃は、赴任した学校のオルガンを直して、弾いてみせ「熊本のベートーベン」と呼ばれたこともありました。のちに兄の薦めで、東京の音楽学校に入学するも、入学のたった4ヶ月後、兄が急逝してしまい、苦学して音楽学校を卒業します。最初の赴任校は兵庫県の柏原中学でしたが、日露戦争の勝報に国中がわいていた時期。血気盛んな若者たちは、若い新任教師を「西洋音楽は軟弱だ」といって標的にし、1年足らずでこの学校を辞め、新潟の女学校へ。以来2年間この学校で教鞭をとり、その間に生まれたのが、「旅愁」と「故郷の廃家」でした。はじめての赴任校で挫折感を味わい、故郷熊本から離れたこの遠い東北の地に向かう時の思いが、「旅愁」の詞に結晶したと言われています。人一倍、故郷に対する思いが強かった球渓は、のちに熊本の女学校、そしてふるさとの人吉の女学校に勤務し、合計で200曲以上の曲を作曲しました。

球渓は、「音楽でも、言葉を大切にしなさい」というのが口癖だったのだそうです。その言葉へのこだわりが、詩情ある歌詞に生きているようです。故郷の人吉城址で毎年秋に開かれる「顕彰音楽祭」は「旅愁」の大合唱で始まり、「故郷の廃家」で終わります。



 
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